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東京地方裁判所 昭和56年(わ)948号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実

本件公訴事実は、

「被告人は、

一  昭和五一年五月二三日午後三時五八分ころ、東京都中央区銀座五丁目三番一号先路上において、労働者・学生らの集団示威運動に伴う違法行為を制止・検挙する任務に従事中の警視庁第五機動隊勤務警視庁巡査高野元伸に対し、右足でその左大腿を一回足蹴にする暴行を加え、もって同警察官の右職務の執行を妨害するとともに、その際、右暴行により同警察官に対し加療約五日間を要する左大腿打撲の傷害を負わせ

二  前同日同時刻ころ、前同所において、労働者・学生らの集団示威運動に伴う違法行為を制止・検挙する任務に従事中の警視庁第五機動隊勤務警視庁巡査部長榎本秀樹に対し、右足でその左すねを一回足蹴にする暴行を加え、もって同警察官の右職務の執行を妨害し

たものである。」

というにある。

第二証拠関係《省略》

第三本件の争点

本件公訴事実については、被告人が被害者高野及び榎本両名に対して公訴事実記載のような暴行を行なったか否かが争われているが、前掲各証拠中の検察官申請にかかる証拠のうちには、本件当時、本件現場付近に出動していた宮城勝(警視庁第五機動隊第四中隊長)、千葉登(同中隊伝令)、尾山芳夫(同中隊第三小隊員)、向井泉市(同機動隊第三中隊長)、城修治(同中隊無線係)、工藤俊彦(同機動隊本部警備係記録担当)、石本紀久夫(同機動隊写真係)、西正人(前同)及び湯脇久雄(警視庁築地警察署交通課員)ら警察官証人の各供述があるものの、これらは、いずれも本件を直接目撃したものではなく(なお、本件そのものを直接撮影した写真も存在しない。)、結局、被害者高野に対する暴行についての直接の証拠としては、高野本人の供述のみ、同榎本に対する暴行についての直接の証拠としては、榎本本人の供述及び付近にいた右高野の供述のみであるところ、弁護人らは、右被害者両名の供述の信ぴょう性を争い、検察官主張のような被告人による暴行はなかった旨を主張し、被告人も事実を全面的に否認する供述をしている。なお、弁護人申請にかかる証拠のうちには、被告人と同一のデモ梯団にいたとされる柳田正人、嵯峨雄次及び松本真人、被告人の所属するデモ梯団の前方のデモ梯団にいたとされる小森英行及び関久、被告人の所属するデモ梯団の後方のデモ梯団にいたとされる堀純及び井上洋一、並びに本件当日のデモ梯団の全般的指揮に当たったとされる西岡智、若林芳夫及び高岩昌興ら本件当日のデモ参加者証人の各供述があるが、うち証人柳田正人が被告人による暴行はなかった旨を積極的に供述しているほかは、直接本件時の被告人の行為を目撃したというものはない。

そこで、以下、まず、本件に関して証拠上明らかに確定できる事実(以下、客観的事実という。)を認定したうえ、被害者とされている証人高野及び同榎本の各供述の信ぴょう性について検討することとする。

第四当裁判所の判断

一  客観的事実関係

前掲各証拠によれば、本件に関する客観的事実として、次の各事実が認定できる。

1  本件現場付近の状況

(1) 数寄屋橋交差点は、北東から南西に走る車道巾約一九・三メートル(片側三車線)の通称外堀通りと北西から南東に走る車道巾約二三・八メートルの通称晴海通りとが直角に交差する信号機の設置された交差点で、その西側角には東芝ビル(交差点に面した部分は阪急百貨店が使用。)、南側角にはソニービル、北側角には数寄屋橋派出所、東側角には不二家ビルがあり、路面には通常の横断歩道標示のほか交差点を対角線に結ぶ横断歩道の標示もなされているいわゆるスクランブル交差点であること

(2) 右のうち、東芝ビルとソニービル間の横断歩道(以下、単に東芝ビル前の横断歩道という。)は、巾約一三・六メートルの横断歩道で、両ビル前にはそれぞれ巾約三・九メートルの歩道が設置されていること

(3) 前記数寄屋橋交差点の南西約一〇〇メートルの地点に外堀通りと通称みゆき通りとの交差点があり、同交差点に至るまでの外堀通り北西側には前記東芝ビル(阪急百貨点、三井銀行が使用。)、南東側にはソニービル、日動ビル(日動画廊等が使用。)、その他雑居ビルが位置していること

2  本件に至るまでの概況

(1) 昭和五一年五月二三日午後一時ころから、東京都千代田区内の日比谷公園において、部落解放同盟中央本部主催による「石川一雄氏不当逮捕一三周年糾弾・狭山完全勝利」をスローガンとする集会が開催され、同集会参加者は、午後三時すぎころから、指揮車を先頭に、身体障害者団体、部落解放同盟、労働組合等の共闘組織、市民・学生等の支持団体等の梯団を組んで会場を出発し、内幸町を経て同都中央区銀座八丁目所在の日本航空ホテル前交差点を左折し、外堀通りを直進し、数寄屋橋交差点、東京駅八重洲口前等を経て解散地点の常盤橋公園に向かったこと

(2) 同日午後三時三〇分ころから、警視庁第五機動隊第四中隊(以下、警視庁機動隊の名称については、単に五機四中隊というように略称する。)約三〇ないし四〇名は、右デモ行進に際しての交通秩序の確保及び違法行為の規制のために出動し、前記外堀通りのうち、みゆき通りとの交差点を含まず数寄屋橋交差点を含む範囲を担当し、高野元伸は同中隊第二小隊員として、榎本秀樹は同中隊第三小隊第二分隊長として右の任務についたこと

(3) そのころ、同中隊とともに、五機本部員一五ないし二〇名、五機三中隊約三〇ないし四〇名、五機五中隊約三〇ないし四〇名及び二機の部隊数十名も、右数寄屋橋交差点付近において、前記四中隊と同様の任務についていたこと

(4) これら警察部隊が行なったデモ隊に対する規制の方法としては、当日のデモ行進に対する許可条件が「行進は五列縦隊によること、いわゆるフランスデモ、蛇行進等はしないこと」とされていたところから、道路中央線付近に達したり、あるいはこれを越えてデモ梯団からみて逆行車線(以下、単に逆行車線という。)に入るようなフランスデモや蛇行進に対しては、警察部隊の隊列をデモ梯団に対して斜めに張って、これをデモ梯団からみて順行車線(以下、単に順行車線という。)内の歩道側一車線付近まで戻すべく規制、誘導したり(この際、場合によっては両手でデモ隊員の体を押すなどするいわゆる圧縮規制も行なった。)、また、数寄屋橋交差点を前記派出所前付近まで渡る際、デモ梯団の脇を併進して誘導するいわゆる併進規制を行なったりしたこと、なお、規制に当たる警察部隊の人数は、デモ梯団の人数の多寡により、一つの中隊全体で規制に当たる場合やそのうちの五、六名又は一〇ないし二〇名位で規制に当たる場合、あるいは同一のデモ梯団に対してその前方、後方を別個の二つの中隊が規制に当たる場合(石本写真13、14参照)があったこと

3  本件直前までの数寄屋橋交差点付近の状況

(1) 同日午後三時三〇分すぎころ、前記日比谷公園を出発したデモ行進の先頭部分約二百数十名の梯団が整然としたデモをしながら数寄屋橋交差点を通過したのち、フランスデモや道路中央線を越えるようなデモを行なういくつかの梯団が同交差点付近に来て、二機及び五機五中隊等の警察部隊がこれを規制したこと(西写真1ないし11関係)

(2) 続いて、同日午後三時三五分ころ、三重県の部落解放同盟等のデモ梯団が同交差点付近まで来て一時停止したあと、同三時三七分ころ同交差点を横断したが、右梯団に対し、二機及び五機の警察部隊が規制、誘導したこと(石本写真1ないし3及び西写真12、13関係)

(3) 次いで、同日午後三時三八分ころ、埼玉県の部落解放同盟等のデモ梯団が来て、その一部に対して、五機三中隊及び同四中隊の警察部隊が規制、誘導したこと(石本写真5、6関係)

(4) その後、若干デモ梯団が途切れたあと、同日午後三時四二、三分ころ、栃木県の部落解放同盟等のデモ梯団が同交差点を通過し、これに続いて神奈川県のデモ梯団(「石川氏は無実だ!」の記載のある横断幕付近の梯団)が来たが、これに対し、五機四中隊の警察部隊が斜めに規制線を張って規制誘導したこと(石本写真7ないし10及び西写真14、15関係)

(5) そして、同日午後三時四五分ころから同三時五〇分ころまでの間、東京都内の部落解放同盟の諸梯団(葛飾、品川、練馬、足立、江東、墨田、江戸川地区等の梯団)が同交差点を一時滞留しながら、ゆっくりと通過し(西写真16、鈴木写真20ないし24及び石本写真13関係)、その際五機三中隊の警察部隊が同交差点内でこれを規制、誘導したこと(鈴木写真22関係)、また、同時刻ころ、右部落解放同盟の諸梯団に続いて、「山谷……」、「狭山ストで……権力差別糾弾労働者全国……」、「コムラート」、「解放新聞○○会」、「東京女子大……」、「連帯」、「青年部、○済労」等と記載した旗や横断幕のあるいくつかの小梯団が同交差点を横断し(西写真16、鈴木写真22及び石本写真12ないし14関係)、これら小梯団に対し、前記ソニービル前付近で五機四中隊及び同本部の警察官数名が(石本写真12関係)、同交差点中央付近で五機四中隊約二十数名の警察部隊が(鈴木写真22及び石本写真13関係)、前記数寄屋橋派出所前付近で五機三中隊約一〇名余の警察官が(石本写真14関係)、それぞれ規制、誘導したこと

4  石本写真15撮影時ころの状況

(1) 前記3(5)のデモ梯団が同交差点を横断したのち、外堀通りの信号が赤色信号、晴海通りの信号が青色信号となり、晴海通りを車両等が通過したこと

(2) 一方、赤色信号となった右外堀通りにおいては、同日午後三時五五分ころ、前記東芝ビル前の横断歩道上付近に約数十名の静岡県のデモ梯団(全電通、部落解放同盟等の梯団)が比較的整然とした隊列を組んで停止し、その後方に、約一五〇ないし二〇〇名の「同対審狭山東京南部地区共闘会議」のデモ梯団(以下、単に南部の梯団という。)、約二〇名位の「狭山同対審荒川区民共闘会議」のデモ梯団(以下、単に荒川の梯団という。)及び数十名の「東京北部狭山闘争実行委員会」のデモ梯団(以下、単に北部の梯団という。)等が右横断歩道より新橋寄りの外堀通り順行車線上から同歩道の道路中央線付近あたりまで密集してふくらむような形で進出して来ており(なお、石本写真15によれば、右密集している梯団中には、荒川区民共闘会議の旗((「狭」の字が見える、))と北部のものと思われる旗がある。)、右の密集して進出して来ている梯団に対し、約五〇名位の警察部隊(うち、五機本部員約七名、同三中隊員約一三名、不明のもの約三〇名。)が右横断歩道上でデモ梯団に対して斜めに規制線を張り、いわゆる圧縮規制を行なっていたこと

(3) 更に、右密集した梯団の直後(数メートル)には、旗数本(うち一本は「部落解放研究会」の「研究」の文字付近がにじんでいるもの、以下、これを「研究」の旗という。)を擁する小梯団や竹竿様の棒を横にして持つ梯団が続き、そのすぐ後方には、「狭山差別……橋のない川……三多摩実行委」の記載のある横断幕(以下、「橋のない川」の横断幕という。)、「救援」の記載のあるのぼり(以下、「救援」ののぼりという。)及び「調布市職員……」の記載のある旗(以下、「調布市」の旗という。)等を先頭にして東京都三多摩地区の労働組合等のデモ梯団が続いていたこと

(4) 外堀通りを東京駅方面に向かう車両は、道路中央線をまたぐような形で一列に並んで信号待ちをしていたこと

5  被告人逮捕時の状況

(1) 同日午後三時五八分ころ、五機四中隊の榎本及び高野の両警察官は、前記東芝ビル前の横断歩道付近の外堀通り上において、被告人に対する現行犯人逮捕に着手し、被告人をデモ梯団から引き離したうえ、右横断歩道上を通って前記ソニービル前まで連行し、午後四時丁度ころ、同ビル前の大理石の敷石上で被告人を制圧したこと(石本写真17関係)

(2) そのころ、それまで被告人と同一梯団にいた柳田正人も、ソニービル前付近の前記横断歩道上で五機四中隊の鳥入、牧田、及び五機本部の工藤俊彦らに腕等をつかまれていたこと(同写真16関係)

6  本件直後の状況

(1) 前記5(2)のとおり同日午後四時丁度ころ一時腕等を警察官につかまれていた柳田正人は、その後間もなくして右拘束を離れ、自己の所属していたデモ梯団に入らずに単身で数寄屋橋交差点を横断したが(鈴木写真25関係)、そのころ、同交差点中央付近において、前記南部の梯団が蛇行進をし、これに続いてその後方を前記荒川の梯団や北部の梯団(「全国一般北部地域支部東阪神分会」の旗((以下、単に「東阪神分会」の旗という。))及び武蔵大学の「M」の字のマークの旗((以下、単に「M」の旗という。))付近の梯団)等が同様のデモ行進をしていたこと(鈴木写真25ないし28及び西写真17関係)

(なお、西写真17は、同写真中の右「東阪神分会」の旗の位置や北部の梯団である武蔵大学の梯団及び同大学の「M」の旗の位置などからみて、右鈴木写真25に極めて近接したころ撮影されたものと認められる。ちなみに、西写真17中で規制に当たっている警察部隊がいかなる中隊かは警察官の証人によっても明らかにされていない。)

(2) 右南部の梯団ないしこれに続く梯団の若干部分に対して、五機三中隊の警察部隊が規制、誘導したこと(鈴木写真25ないし28関係)

(3) 右南部、荒川、北部等の梯団が同交差点中央付近で蛇行進をしているころ、これらの梯団に続いて、前記4(3)の「研究」の旗のある梯団、「橋のない川」の横断幕及び「救援」ののぼりに続く梯団等が東芝ビル前の横断歩道付近に達していたこと(鈴木写真25ないし28関係)、なお、右「橋のない川」の横断幕や「救援」ののぼり及び前記「調布市」の旗等に続く梯団は、その後もほぼまとまってデモ行進を続けたこと(西写真20、29及び石本写真24関係)

(4) その後、同交差点には、「全逓」、「全電通」の各組合の梯団、立川の労働組合の梯団、「自治労三鷹市」、「自治労本部」、「建築共闘」等の旗のある各小梯団が来たが、これらの梯団に対して、五機四中隊の警察部隊がデモ梯団に対して車道上に斜めの規制線を張って規制、誘導したこと(西写真18、19関係)、なお、これらの梯団は、その後も、前記(3)の梯団のあとをデモ行進したこと(石本写真24、26、31及び西写真20、24、25、29ないし31関係)

(5) 証人高野は、被告人を逮捕した後、左足大腿部に痛みをおぼえたため、同日午後五時三〇分ころ、東京都中央区内の木挽町医院に赴き、同院医師宮崎舜治から加療約五日間を要する左大腿部打撲との診断を受けたこと

二  証人高野及び同榎本の供述の要旨

1  被害者とされている証人高野は、差戻し前の第一審の公判調書(第四回、第五回)中で、自己及び榎本の被害状況に関して、大要、次のように供述している。

「当日、午後三時半ころ、数寄屋橋交差点に到着して警備につき、外堀通りにおいて新橋方向から来るフランスデモ等を同交差点の端まで送るなどしていた。本件の直前は、同交差点の中で前のデモ隊の規制に当たっていたが、宮城四中隊長の指示で移動し、東芝ビル前の横断歩道より若干新橋寄りの外堀通り逆行車線上に同中隊四〇名位で斜めにほぼ横一列の規制線を張って静止していたところ、新橋方向から約一〇〇名位の梯団が順行車線を越え逆行車線二車線位に及ぶような小走りの蛇行進をしながら規制線に近づき、規制線に約五〇センチメートル位まで接近しつつ、規制線に沿って前進して行った。そして、右梯団の二メートル位後方にいた約四、五十名の梯団も、右と同様の蛇行進をしながら規制線に近づき、規制線に沿って、これと約五〇センチメートル位の間隔をもって通り過ぎようとしたが、これに対して、私が右の方へ行くように指示をしていたときに、左足の大腿部の内側がガクッとしたのでやられたと思った。それで見たときに、黒っぽい足が下っていくのを見たと思う。やつの方を見たときは二、三歩前へ行っていたが、そうしたらやつが列から少し外側に体を開いて私の二人位右横にいた榎本の左足の脛あたりを蹴り上げるのを見た。そのときには、榎本が声をあげて腰に飛びついたと思うが、私も、他の機動隊員の後ろ側から回りこむようにして逮捕に向かった。榎本とともにデモ隊列から離れまいとする犯人を隊列から引き離してソニービルの方へ連行し、同ビル前の展示場の板塀のところで制圧したが、それが被告人だった。そのとき丁度午後四時だった。被告人に蹴られたのは、斜めに規制線を張ってから一分位過ぎたころで、四時二、三分前ころと思う。なお、本件当時交差点入口付近にデモ隊がつまっていたという記憶はない。」

そして、当公判廷において、「被告人を制圧した場所にベニア板があったというのは勘違いであった。」、「当日、現場付近に出ていた部隊は、以前は五機四中隊しかいなかったと思っていたが、写真を見ると、五機の三中隊、五中隊や二機も出ていた。」、「蹴られてから被告人を制圧し終わるまでは、おおむね四、五〇秒、少くとも一分以内であった。」旨の従前の供述を訂正ないし修正する供述をしているほか、規制線を張って一〇〇名位のデモ梯団を見たときの自己の位置からその梯団の先頭までの距離を「二〇メートル位。」と供述している。

2  今一人の被害者とされている証人榎本は、自己の被害状況に関し、差戻し前の第一審の公判調書(第七回、第八回、第一五回)中で、大要、次のように供述している。

「当日、午後三時三〇分ころ、日動画廊の前へ出たが、初めは二五〇名位の平穏なデモ梯団が通過し、そのあとにフランスデモが来て、これを数寄屋橋交差点を越えたところまで併進規制して行くようなことを何度かしていた。本件の規制前にもデモ隊を併進規制して交差点の端までもって行き、すぐまた戻って来て、中隊長の指示で新橋方向から来る大きなジグザグ行進を規制するため外堀通りのソニービル側逆行車線上に四中隊約三〇名の部隊で斜めに横一列の規制線を張った。規制線を張ったとき、新橋方向四、五十メートル先に百二、三十名の梯団及びこれに一、二メートルの間隔で続く二、三十名の小梯団があり、大きな角度でジグザグデモを行い、東芝ビルの側から進行方向を変えて規制線の方に小走りで近づき、部隊とは接触することなくまた東芝ビルの方へ進行して行ったが、そのとき、後ろの小梯団の中央右端あたりにいた者が向きを変えて右足で私の向う脛を蹴り上げて行った。蹴られた直後、『公妨だ。検挙する。』と言って、すぐその男の腰にしがみついた。男はデモ隊の隊列の中に逃げこもうとしていたので、二、三人に手伝ってもらってこれを連れ出し、高野とともにソニービルの方へ連行し、途中、一旦振りほどかれて逃げられたが、結局、同ビル前の展示場のベニヤ板の上で犯人を制圧した。それが被告人で、このとき丁度午後四時だった。蹴られた時刻は午後三時五七、八分と思う。規制線を張ってから蹴られるまでは一分程度だった。石本写真15は逮捕の最中のものだと思う。なお、本件当時デモ隊が停滞したという記憶はないし、本件の直前に規制して行った梯団と本件の際の一五〇名位の梯団との間に他の梯団はなかった。」

そして、当公判廷において、「当日、現場付近には五機の三中隊や五中隊も出ていた。従前の四中隊しかいなかった旨の証言は勘違い。」、「石本写真15に写されている規制部隊を前に四中隊と述べたが、それは、現場付近に四中隊しかいないと思っていたからで、同写真に写されている部隊は五機三中隊と同本部の者である。被告人を逮捕した状況は同写真とは全く違う。」、「従前制圧した場所にベニア板があったと述べたが、ひょっとしたら勘違いかも知れない。」、「逮捕に着手して制圧し終わるまでの時間は、おおむね四、五十秒なので、被害時刻は午後三時五九分ころだと思う。」旨の従前の供述を訂正ないし修正する供述をしている。

三  証人高野及び同榎本の供述の信ぴょう性について

1  証人高野及び同榎本の供述の要旨は、右のようなものであるが、右証人らが犯人を特定した経緯をみると、証人高野の場合、「ガクッとした衝撃を受けたあと見ると、犯人の足が下がっていくのを見たと思う。やつの方を見たときは、もう二、三歩前に行っていた。」と述べているように、犯人の顔等を注視していたわけではなく、直後の足の動きから行為者を推定したというにとどまるもので、また、同榎本の場合も、「最初見たのは足が飛んでくるところで、靴の爪先が左足の向う脛に当たった。ただ、その人の胴体部分は見ていない。」と述べているほか、犯人に蹴られてから犯人の腰に手が届くまでの時間について、当初「一、二分だと思う。」と述べ、のちに「三〇秒かかっていない。」と訂正するなど犯人の足は見たとしても、顔等を注視して特定したとは言い難い状況下にあったことが窺われ、被害者証人の右のような曖昧な内容を含む供述に照らしても、右証人らの供述の信ぴょう性については、同証人らの供述の客観的事実との整合性、あるいは供述内容の正確性等を吟味して慎重に検討する必要がある。

2  右両証人は、本件の際の状況に関して、本件現場付近に五機四中隊全員で本件の規制線を張ったころ、数寄屋橋交差点入口付近にはデモ梯団の停滞はなく、新橋方向二〇ないし四〇メートル先から一〇〇名余の梯団が大きく蛇行進をして近づいて来るのが見え、そのすぐ後方に、被告人のいた二〇ないし五〇名位の小梯団が同様の蛇行進をして続き、まず一〇〇名余の梯団が規制線の前を接触せずに小走りで通り過ぎ、続いて被告人のいた梯団も同様に小走りで通り過ぎようとし、その際暴行を受けた旨を供述しているが、右供述には、次のような疑問点がある。

(一) 証人高野及び同榎本らが本件発生の直前に規制線を張った時期並びにそのころの現場付近の状況について、前掲各証拠並びに前記客観的事実を総合して検討すると、五機四中隊は、本件発生少し前の同日午後三時四五分ないし五〇分ころまで、数寄屋橋交差点内でデモ梯団の規制に当たっていたことが窺われるが(鈴木写真22及び石本写真13、14関係)、同中隊の一部又は全部が、その後外堀通りの信号が赤色信号に変わる前(石本写真15撮影の前)に、右規制を終えて同交差点の東芝ビル側に移動したという可能性を否定し得ないし(証人榎本は、『本件規制の前にデモ隊を併進規制して同交差点の東京駅寄りの端まで持って行って、すぐ戻って来て本件規制線を張った。前の梯団に対する規制が終って本件規制を張るまで、一、二分ないし一分以内かと思う。』旨の供述をしており、同証人の右供述によれば、四中隊が本件規制に入る前に同交差点の東京駅側で一定の時間信号待ちをしたことは窺いにくい。また、当日の同交差点の信号機の作動は機動隊の警備活動に即応しやすい手動によるものであったうえ、四中隊の当日の役割分担が同交差点を含んでそれより新橋側の警備に当たるとされていたことなどに照らすと、石本写真15撮影時ころ、四中隊が同交差点の東京駅側で漫然と信号待ちをしていたであろうかという疑問もある。)、更に、同日午後三時五五分ころ撮影されたとみられる石本写真15中には、デモ隊の規制に当たっている約五〇名の警察官がいるが、その中には所属不明の警察官約約が三〇名おり、そのうちに五機四中隊員が存在する可能性もまた否定できず、なお、証人高野及び同榎本も、本件発生時刻につき、差戻し前の第一審においては、同日午後三時五七、八分ころという比較的早い時刻を供述しており、以上の事情に照らすと、同証人らは、右石本写真15が撮影されたころ、既に東芝ビル前付近に戻って同写真中で規制線を張っている警察部隊の中の一人として本件の際の規制に当たっており、その過程で被告人の逮捕という事態に至ったということの可能性も否定し難いと言わざるを得ない(なお、証拠によって、これらのことを断定するまでには至らない。)。この場合における本件発生直前ないし発生時の状況は、デモ梯団が密集し、これと警察部隊とが接着する状況下にあったもので、この点に関する同証人らの供述とは明らかに異なることになる。

ところで、同証人らは、当公判廷においては、本件発生時刻を同日午後三時五九分ころと供述を変更しており、右供述と、本件規制線を張ったのは本件発生より一分位前である旨の従前からの同証人らの供述に従えば、本件規制線を張ったのは、遅くみて同日午後三時五七、八分ころということになるので、そのころの本件現場付近の状況について、以下、検討することにする(なお、検察官は、当審においては、同証人らのいる四中隊は、石本写真15撮影時ころは同交差点の東京駅側にいて、その後外堀通りの信号が青色信号に変わってから本件現場付近に戻って来たと主張している。)。

前掲各証拠並びに前記客観的事実を総合すると、石本写真15が撮影されたのち、外堀通りの信号が青色信号となった際には、同写真に写されている相当数の車両がまず東京駅方向へ進行し、そして、同じく同写真中に見える静岡の数十人の梯団が同交差点の横断を始めたことが容易に認められ、また、同写真中で密集状態にある前記南部、荒川、北部等の二〇〇名を超える梯団が隊列を整えたりすることをも考慮すれば、同梯団等がデモ行進を開始するまでには若干の時間の経過があることが窺われ、更に、鈴木写真25等によれば、前記南部、荒川、北部等の梯団は、同日午後四時を少し回った時点で、石本写真15中の位置からさほど離れていない同交差点中央付近で未だ蛇行進をしており、かつ、そのころ東芝ビル前の横断歩道付近には、前記「研究」の旗のある梯団、同「橋のない川」の横断幕及び「救援」ののぼりに続く梯団等が密集している状況にあったことが認められ、右状況に照らせば、前記石本写真15中の密集している梯団等が行進を開始したのは、デモ梯団の進行速度を考えても、鈴木写真25の撮影時点よりもさほど遡るとはみられず、以上の諸事情を総合すれば、同日午後三時五七、八分ころの東芝ビル前の横断歩道付近及びその若干新橋寄りの外堀通りの状況は、右に挙げたような多数のデモ梯団ないしデモ隊員が密集状態ないし少くともこれに近い状態で滞留し、あるいはデモ行進を開始しようとしていたことが推認でき、証人高野及び同榎本が供述するような、デモ梯団の停滞もなく、新橋方向から一〇〇名余の梯団及び被告人のいる小梯団が前の梯団とは離れた形で(証人榎本は、前記のとおり、本件梯団を規制するために戻って行ったとき、その直前に規制した梯団と本件の際の約一五〇名の梯団との間には他の梯団はなかった旨を供述している。)、蛇行進をして小走りで規制線に近づき、接触することなく通り過ぎて行くというような状況は、到底想定し難く、本件発生直前ないし発生時の状況に関する右両証人の供述の信ぴょう性については重大な疑問があると言わざるを得ない。

(二) なお、検察官は、被告人のいた梯団について、石本写真15中の南部、荒川、北部等の密集した梯団の後方に続くデモ梯団の中の一つで、西写真17に写っている梯団より後方の梯団であるかの主張をしているが、証人榎本は、被告人のいた梯団及びその前方にいた一〇〇名余の梯団は旗や横断幕などのない梯団と供述しているところ、前記石本写真15中の後方に続くデモ梯団は、比較的多くの旗、横断幕、のぼり等を伴う梯団であり、その様相を異にしているばかりか、他の写真を総合して考察すると、前記「橋のない川」の横断幕、「救援」ののぼり以降の後続の梯団は、調布市、立川市その他の東京都三多摩地区の労働組合等のデモ梯団であるとみられるが、当裁判所が取り調べた全証拠を検討しても、これらのデモ梯団の中に被告人がいた梯団の存在を窺わせる証拠は見出せず(なお、被告人のいた梯団の前方の一〇〇名余の梯団の存在についても同様である。)、更に、右のように後方のデモ梯団の中に被告人のいた梯団があったとすると、四中隊は、同交差点付近の多数のデモ梯団の停滞を看過してわざわざ相当新橋寄りの梯団の規制に当たったことになって不自然であり、そして、何よりも被告人と同一の梯団にいて一旦警察官に身体をつかまれた前記柳田が鈴木写真25に単身で写されていることに照らすと、右のように後方のデモ梯団の中に被告人のいた梯団があったとみることは困難である(なお、検察官主張のように西写真17に写っている梯団より後方に被告人のいた梯団があったとすると、右西は被告人や柳田に対する検挙活動等を撮影できたのではないかと思われる。)。

結局、証人高野及び同榎本の供述するような形態でデモ行進する一〇〇名余の梯団及びこれに続く小梯団を同日午後三時五七、八分ころ本件現場付近に見出すことは極めて困難ということになる。

(一〇〇名余の梯団及びその後方に続く二〇ないし五〇名の梯団ということであれば、人数的に言えば、南部の梯団及びこれに続く荒川や北部の小梯団、あるいは弁護人、被告人らが荒川の梯団のすぐ後方にいたと主張する被告人らの梯団がこれに該当する可能性がある。石本写真15中の密集した梯団の中に被告人らの梯団を特定することはできないが、右人数の点や前掲関係証拠に照らすと、右密集した梯団付近に被告人のいた梯団が存在するとみる余地はあると言える。)

(三) 次に、証人高野及び同榎本は、本件の際の規制態様及び暴行の態様について、本件規制線は四中隊全員三〇ないし四〇名で斜め横一列に張り、本件デモ梯団が来たときは静止していてデモ隊にはほとんど接触しておらず、他方犯人はその前方を小走りに行進しながら足蹴り行為に及んだ旨を供述しているが、同中隊にいた証人尾山芳夫は、「四中隊は小梯団を担当していた。」、「本件規制に入ったときは、中隊は割れていたと思う。規制線は二〇名位だった。」、「本件梯団が来たとき、梯団に対処するため、一緒に前進するような形でカニの横ばいを少し斜めにしたような感じで歩いた。」旨を供述しており、規制部隊の人数、規制の態様が前記高野及び榎本らの供述内容とかなり異なっている。そして、右証人尾山の供述その他前掲各証拠並びに前記認定の客観的事実を総合すると、石本写真15中の密集した梯団のうち前記一五〇ないし二〇〇名に近い南部の梯団に対しては、デモ行進を開始したのち五機三中隊が規制、誘導に当たっていたことが窺われるが、三〇ないし四〇名の右三中隊としては、南部の梯団に対処するのが限度とみられ、後続の荒川、北部などこれに続く小梯団に対しては、現場付近にいた四中隊の部隊が適宜、相応した人数で対処した可能性は十分にあり得るところである。しかも、証人高野及び同榎本が供述しているように、同証人らが規制線を張ったところに被告人らの梯団が近づいたとみても、現場は相当密集しかつ流動的であったとみられ、被告人らの梯団を含む小梯団に対する規制態様も、静止したものではなく、動きを伴いながら、五機三中隊が南部の梯団に対して行なっているようなデモ隊と密着したような規制、誘導が行なわれた可能性が高く、少くとも、静止した状態にある規制線の前方を一定の距離を置いてデモ梯団が行進し、その中の一人が走りながら続けて二人の警察官に対し足蹴りをしたとする証人高野及び同榎本の供述には疑問があると言わざるを得ない。

3  右のとおり、証人高野及び同榎本の本件目撃状況に関する供述は、客観的事実及びこれらから推認される事実と重要な点で異なるうえ、前記1で指摘したように犯人の特定に関する供述自体に曖昧な点を含むことを併せ考えると、右両証人が暴行の実行行為やその行為者を正確に現認したうえで供述をしているのか否か疑問を抱かざるを得ない。また、犯行の動機の面から考えても、右両証人の供述するような状況下で、即ち、白昼、多数の警察官の面前で、検挙される可能性が極めて高い状況下で、特段の理由もなく、わざわざ体を開いて向きを変え、しかも二人に対して続けて足蹴り行為に及ぶだろうかという疑問もなしとしない(なお、高野が負傷しているところからみて、同証人らが当日デモ隊員と何らかの身体的接触をしたとみる余地はあるが、その場合でも、不法な有形力の行使によるものか否か、本件とは状況を異にする場合のものでないかという疑問が残る。)。

以上のような疑問点が存在する以上、右両証人の供述のみによって本件公訴事実につき有罪を認定することは困難と言わざるを得ない。

四  結論

以上の次第で、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対し無罪の言渡をする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竪山眞一 裁判官 七沢章 池田耕平)

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